寺の紹介

歴史

龍渓山妙徳寺は長和元年(1012)恵信僧都の開基と伝えられ当初は天台宗、清滝の地にあったと伝えられます。室町時代に毛利監物重元という人が出家し教西と名を改めて真言宗の僧となって当山に住んでいましたが、明応元年(1492)、旅の途中、京で蓮如上人の弟子となり『了善』の法名を賜り浄土真宗に改宗、自らを当山の初代としました。六代了見の頃、本願寺直属の末寺となるという経緯を経ます。以来先代の十七代了雲まで、歴代住職とそれを支え続けた門信徒方々のご苦労が偲ばれます。

1枚目:大正初めごろの本堂
2枚目:戦前まで境内にあった「亀の松」は当時の盆踊りにも詠われたそうです。
3枚目:昭和初期、川上村報徳婦人部行事の写真。上に亀の松が見えます。
4枚目:昭和33年5月、当寺にお立ち寄りくださった第23代ご門主との記念写真。
5枚目:平成4年5月、お立ち寄りくださった第24代ご門主との記念写真。
6枚目:本堂と庫裏の間の築山、何代も前からお参りの合間の憩いの空間です。

本堂の経緯

妙徳寺本堂について、記録では天明四年(1784)4月28日火災のため、堂宇、宝物などことごとく焼失し、天明九年、焼け跡に御堂を建てたとあります。安永三年(1774)3月、飯田村からの書出帳には山門があったことが記されています。現在の本堂は飯田村を中心に、ご門徒や信徒、有縁方々の協力によって、明治四二年5月15日に着工し、同四五年(1909)3月に完成、大正二年12月7、8日に上棟式を行ったとあります。また篤信家のご懇志により、仏具や法衣、経蔵や、石畳、灯籠、親鸞聖人像などが新たに建立されるなどして現在に至っています。

 

みょうとくこども園

 

第2次世界大戦の後、敗戦からの復興のために多くの人が働きに出ました。女性も職をもって家を助けるようになり、子どもの育ちを守る場が求められるようになりました。1947年に『児童福祉法』の制定、1950年厚生省は『保育所運営要領』を発刊するなど、子育て環境の整備が急務だったことが分かります。

この飯田の地においても子どもの育ちの場が求められ、昭和25年に総代と相談した17代住職大江了雲が、保育所開設の認可を受け妙徳寺本堂で『妙徳保育園』を開園、翌年境内東側蔵納屋跡地に園舎を完成させました。60年を経て老朽化した園舎と手狭な園庭の問題解決のために平成12年、境内から少し離れた現在地に移転、鉄筋コンクリート2階建ての園舎となりました。
保育利用者の要望の多様化に応えるため、令和2年4月から『幼保連携型認定みょうとくこども園』へ移行しました。

開園当時と現在とでは社会の様子は全く違いますが、子どもの育ちを担う役割はますます必要とされています。いつの時代も子どもを育てることは、決しておろそかにしてはならない大切な仕事です。
子どもは社会の激動によってとても影響を受けてしまいます。たとえ世の中がどのように変動しようとも、「大丈夫だよ、心配いらないよ」と語りかけ育て導き続けること、それは仏さまの姿勢そのものです。
開園以来仏教保育を志し、仏さまのおこころに学びながらの教育・保育を心がけています。そしてほとけの子の育成、つまり尊いいのちを大切に生き抜くことのできる力を養いたいと思います。